社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

日記2019.9.24 「香港デモ」に関するテーマの記事と、そのほか(「蝶」や「アメリカン・ポップス」など)の記事を、今後別の媒体で行うことについて、筆者(青山)から読者の方々に知っておいて貰いたいこと。

湾岸戦争の時、本気でイラク(特に北部のクルド地域)に、モンシロチョウの調査に行こうと思ったことがあります。資金がなく断念したわけですが、むろん実行すれば、世間的には、それ以前の問題として「今、世界が大変な思いをしているときに、何を能天気なことを考えているんだ」と批判されるだけです。

でも、僕としては、「人類のため」を思っての行動(未遂)だと、今も信じているのです(笑)。

私たち、いわゆる「西側人間」と、イスラム社会の間にある、限りなく深い溝。

敵対することではなく、分かり合うことが不可欠、と僕(や多くの人々)は信じているのですが、じゃあ、どう分かり合えば良いのか、となると、もしかすると永遠に不可能と思われるほどの難題のように思います。

僕が思うに、分かり合うための唯一の手がかりは、一度、それぞれの世界が成り立った「根源」まで遡って、それぞれの地に「人類」が成り立つ以前の「土壌(ベーシックな部分)」を見つめてみることにあるのではないかと。

それぞれの地域に人類が繁栄するよりも以前から棲み続けてきた、同じ仲間に属する生物(たまたま例として取り上げようとしたのがモンシロチョウの仲間)の比較を行こなうことで、それぞれの地域の(およびそこに繁栄した人類の)アイゼンティティを探ることが出来るのではないかと思っています。

そこ(人類発生以前)から現在までの道程は気が遠くなるような時間的距離で、その大半(イスラム教世界とキリスト教世界の争いなどは、最後のほうの僅かな時間)は、この問題(西側社会とイスラム社会の軋轢)を考える上において、無駄な存在でしかないのだと思われます。おそらくは「そんな(マニアックな)ことをしている場合ではない」と言われるだけでしょう。

でも、社会学者とか政治学者とかが、学問体系に沿って考察や説明を行っても、いつまでたっても問題の本質には辿り着かない(「答え」は出せても現実的解決には至らない)と思うのです。言い換えれば、頭の悪い僕だからこそ、気の利いた答えは出せなくても、その分「実態」に迫れるのではないかと考えています。

「香港デモ」についても、僕は似たような気分を持っています。

「社会の窓から」は、「テーマを絞らないことがテーマ」というスタンスで開始しました。しかし現時点で興味を持って読まれているのは「香港デモ」についての記事です。

それは訪問者の数からも知れますし、中国在住の知人からも「せっかく香港デモの記事が読まれているのに、ギリシャの蝶々の話やアメリカン・ポップスの話を組み入れると、せっかく読んでくれていた人たちも、(タイトルを見て)最初から読むのを止めてしまうよ、もったいない」と忠告を受けました。

それは良くわかったうえで、あえて「多様な」テーマの記事を並行して載せているのですが、でも、現実には(はっきり言わせて貰うと)読者の大多数はバカです。たぶん僕の想いは分かってくれない。

ここで言う「バカ」とは、「頭のいいひと」の同義語です。今の日本の教育の方向性では、理路整然と物事を組み立て、無駄を省き、明確に答えを出せるものだけが、生き残って出世出来ます。迷ったり、寄り道をしていたりすると、置いて行かれてしまうのです。

それらの人々がトップに立つことで社会の構造が成り立っていて、庶民は無意識的にそれに従います。学識のあるなしに関わらず、ある一つの「真実」「正義」「自由」「法」「平和」「平等」 といった概念に基づいて、その中でしか物事を考えられない、そこから逸脱するものは切り捨てられる、というのが、現在の日本社会です。そしてそれを先導するのがメディアです。

僕が「社会の窓から」に載せてきた「ギリシャの蝶~」や「エルヴィスと~」も、題材こそ全く異なりはしますが、「香港デモ」と同じスタンスで、同じ目的意識を持って書いています。蝶やアメリカン・ポップスを、マニアックな対象としてではなく、様々な方向からアプローチする、普遍的な問題点の確認のための、題材としているのです。

とはいっても、ブログを見てもらわないことには、意味がありません。今回、いわば「断腸の思い」で、それぞれのテーマごとに媒体を分割しました。願わくば、どれか一つの分野に興味を持っている方も、ぜひ、他のテーマの記事にも眼を通して頂きたいと、望んでいる次第です。