社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

「コロナ騒動」一周年に際して/マスクとワクチンが人類を滅ぼす “無意識強要同調空気”への恐怖

今日で『「コロナ問題」問題』発生、ちょうど一年になる。
 
僕は、問題発生以来、基本的にはずっと同じことを書き続けている。事態は、概ね僕の言っている通りに進んでいるようである。誰も素直に認めようとはしないが、、、。
 
当初から僕の意見は同じである。一言で言えば、「俯瞰的な見方をすべし」「空気に取り込まれないように」ということ。現在の社会の中で確立されている「体系」に沿って対策を進めるだけでは、解決には至らない。マスクもワクチンも解決策ではない。それどころか、長い目で見れば、人類の滅亡に繋がる、と本気で思っている。
 
短絡的な答え(世論・空気の流れ)に基づいてマスク社会が構築されている状況を、ただやみくもに肯じるのではなく、背景を俯瞰的に見つめ直さねばならない(それは、個人にとっても、人類全体にとっても、少々苦しいことではあるかも知れないが)。
 
個人が(あるいは世間が)纏っている感情的な部分を削ぎ落とし、純粋に客観的な次元に立ってのみ見たならば、いわゆる「コロナ」は、地球上に存在する無数の要素(“良きもの”も“悪しきもの”も、その全てが人類に対しての“脅威”と成り得る)の一つが、姿を現した(見つけた)のに過ぎない。敵として、それから逃げる、それを壊滅する、、、そのことを続けている限り、この問題は永遠に解決しない。
 
と、ずっと同じ意見を、バカの一つ覚えのように一年間言い続けてきたわけで、その結果、メジャーなメディアからは、 “バカじゃないかこいつ?”みたいな感じで見放されてしまうに至っている。
 
例えば、「現代ビジネス」は、2017年から20数回続けたあと、「沖縄」関係のシリーズを始めようとしたところで、突如打ち切りにされてしまった。その後は(2019年6月から2020年6月にかけての一年間に)断片的に、次の5記事を掲載した。そして最後の掲載の翌日から、全く連絡も取れなくなってしまった。
 
* 「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感/ただの「同調圧力の象徴」になっていないか(2020.6.8掲載)
 
*そもそもなぜ中国・武漢は「新型コロナの発生地」になったのか?/自然から人類への警告の可能性(2020.3.22掲載)
 
*香港デモで「正義の香港市民」に暴行されかけて抱いた悲しみと違和感/「正義」とは何なのか?(2019.8.4掲載)
 
*私が目撃した「天安門事件」あの日、中国の若者に訊ねられたこと/「中国は、日本みたいになれるかな。。。」(2019.6.9掲載)
 
「一年間」と言ったが、(僕の取り組みの)流れは、その半年前の「香港デモ」から続いている。そこで僕は、(香港デモ参加者・群衆の)マスク(に対する日本の大衆の反応)への批判を行なった。それは(今僕が言っているところの)「コロナ」マスクへの批判と無関係ではなく、本質的・大局的な部分で、強く繋がっている。ある意味では、「香港デモ」と『「コロナ問題」問題』は、直結しているのではないか、とも思っている。そのことについては、追々詳しく述べていく予定である。
 
僕は、「コロナ」への対応に際して、マスクの常時着用を否定する立場をとっている。ただし、否定の根拠は、他の否定派の人とは異なる考えに基づく。「経済優先」か「命優先」か、そんなことは些末的な問題なのである。
 
「人の命」と「経済」どちらに重きを置くかとすれば、単純に考えれば前者なのであろう(特定の範囲の人々ではなく、全ての人の命)。
 
と同時に、もとより、命が最優先(生きてさえいれば何でも出来る)とも思ってはいない。もっと大事なものがあるはずだ(それに関しての具体的な意見についてはこれまでにも度々述べてきたのでここでは割愛する)。
 
「経済優先」で言えば、むしろ経済に軸を置く社会構成など、この際一度破綻してしまった方が良い、と心中では願っている(経済が回復したところで「コロナに翻弄される弱者」よりも更に「最下層の貧民たち」へ直結などはしない)。
 
そしてマスクの着用は、極論すれば(他の世の中に存在する様々な事例の相互要因の関係性と同列に扱えば)、経済の回復とも命の保証とも無関係である。
 
マスク社会のもつ“恐ろしさ”は、もっと別のところにある。そのことを、出来得る限り理論的に考察し、より多くの人々に伝えるべく、一年がかりで発信していくつもりでいる。
 
誤解のないように、いくつかの事柄を箇条書きで示しておく。僕の想いは、以下に記す前提の上に成り立っている、ということを御理解いただきたい。
 
まず表題。「コロナ問題問題」と「問題」を重複したのは、むろん記入ミスではない。コロナが問題なのではなく、「コロナ問題」が「問題」なのだ、ということである。
 
「コロナ」の語を安易に使用することは、この「問題」を間違った方向に導くだけである。本来ならば、もっと正確な言葉で表記せねばならない【「青山潤三の世界・あや子版」遺書 4(2020-07-31 08:32:06 | 香港デモ、新型ウイルス、日記)】。ただしここでは便宜上(いわゆる)「コロナ」として表記していく。 
 
「コロナの脅威」は僕も十二分に認識している。そのうえで(別の角度から見れば)「ただの風邪である」ということも事実だと考えている(“風邪”は、非常に恐ろしい病気だ)。
 
ほぼ一貫して、日本の立場を批判している(政府に対しても大衆に対しても)。それは、僕が誰よりも愛国者であるゆえにである。また、概ね中国の味方をしているが、中国がとんでもない酷い国であることは、誰よりも良く知っている。むろん中国共産主義は容認していない。
 
科学(あるいは文明)を批判・否定している。それは、科学「的」な方法論や方向性への過信に対してである。科学そのものには希望を持っている。
 
上記したようにマスクを拒否しているが、僕自身は、臨機応変にその場その場でマスクを着用している(そうすることが正しいとは必ずしも思っていないけれど)。
 
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僕が言わなくたって、多くの人々は、うっすらと気付いているはずだ。どこかおかしいんじゃないかと。我々は、(人類の歴史の長い間)「何かに」洗脳されてしまっているのではないか、と。
 
目を覚まして貰いたい。「コロナ問題」の意味するところは、単に「コロナ」の問題ではない、ということに気付いて欲しい。
 
以下、一年前にスタートした「コロナ問題」の動きを、改めてなぞっていくことにする。一年という時間をおいて再検証していくことにより、我々が今何をしている、どこに向かおうとしているかを、より「客観的」に俯瞰することが可能になってくるのではないかと考えている。
 
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2020年1月16日。僕は中国広州郊外のボロアパート*にいた。
*ボロアパート=想像を絶する貧民窟に存在(賃貸し月5000円、部屋の中は埃と悪臭にまみれ、水道の蛇口からは黄色い水がでる)。ちなみに周辺は(いろんな意味で)想像を絶する超高級住宅街(超豪華な住宅が次々と建てられ、その何割かは人の住まぬまま朽ち果てていく、僕の知人は一億円余で購入)。
 
同じころ、別の知人のK氏から、ユーチュバーになることを勧められ、さっそくその翌日から、モニカ*の携帯電話を使って、少なくても一年間、毎日発信していく決意をした。しかし、全く同時に「コロナ騒動」が発生し、第一回目だけの発信に終わって、今に至っているわけである(日本では僕は携帯電話を持てない)。
*モニカ=中国人のアシスタント。大学卒業後、10年間にわたって渾身的に僕を手伝ってくれている(給料は払っていない)。5年前、中国人男性と見合い結婚し、一女がいる(今年2人目が誕生予定)。
 
何度か書いてきたことだが、最初に「湖北省武漢発生の新型コロナによる人-人感染が証明された」というニュースが報道されたとき(2020年1月16日、第一回目のユーチュブ発信の前日)、その記事と並んで、同じ湖北省の長江に棲む「世界最大の淡水魚の絶滅を認定」という記事が載っていた。僕から見れば、後者のほうが遥かに重大なニュースと思えたのである。
 
むろん、(僕の想いとは逆に)、一方は忘却、一方は「人類未曾有の大騒動」へと、正反対の方向に進んでいくわけだが、僕にはそのことが、この問題(いわゆる「コロナ」)の本質の全てを象徴しているように思えてならないのである。
 
僕自身のことを少し述べておく。本職は「ネーチャー・フォトグラファー」である。と共に、僕の守備範囲(研究対象)である幾つかの生物群(主に蝶と蝉、植物では野生アジサイなど)を調べている。系統分類(学)、生物地理(学)という分野に関わりがある。
 
「研究」とか「学問」とかいう言葉は嫌いなので、使わない。「教育」とか「知識」とか「答え」とか言った言葉も嫌い。むろん「名誉」にも全く興味はない。「学問」としてではなく、ひたすら「実態を知る」ために取り組んでいる。本気である。素人ではあるが、趣味では断じてない。
 
何度も言ってきたように、僕の姿勢は、普遍性の追求であり、「マニアック」な人達とは対極に位置する、と考えている。生き物コレクターは(野草の栽培とかも含めて)大嫌い。もとより、ペットや園芸植物などに対しては、全く興味も知識もない。
 
「趣味」といえば、1960年代初頭を中心とした「アメリカン・ポップス」、および主に明治20年代の「明治文学」。これは紛い無き趣味である。こちらのほうは、マニアックといわれると嬉しい(本当にマニアックな人達は凄いので、同列に語ると失礼だが)。
 
ただし、興味の根源は同じところにある。
 
「事実は一つではない」「正解はない(それを求める努力は否定しないとしても)」
 
それを「一つに」決めつけようとする「空気」に対する危惧。結果云々ではなく、そこに向かう(無意識に、しばしば一気に為される)「空気」を、やみくもに肯定することに対する、全否定。
 
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野生生物調査に於ける僕のフィールドは、中国大陸。むろん、湖北省も含まれる。本来の目的は、日本の生物相の成り立ちを知ることである。日本を愛する日本人の一人として、より深く日本を知るために、その「マザーランド」ともいえる中国の生物相を調べているのである。
 
それから沖縄(「琉球」あるいは「南西諸島」というべきか)。
 
去年の今日、「中国湖北省武漢発祥とされる新型コロナウイルスの人-人感染」が初めてメディアで報道された。その半年前に、僕は「香港デモに於ける“マスク”の位置づけ」に関する記事を、メジャー・メディア(「現代ビジネス」)に発表した(敢えて「メジャー・メディア」と記したのは、自分のブログには、常時そのことを書き続けているので、我彼を区別するためである)。
 
その「香港デモに於けるマスクの位置づけ」の流れで、「コロナウイルスに於けるマスクの位置づけ」も書いているのである。誰もそんなことを結びつけはしまい。偶然だとしか考えないであろう。僕は一貫して、同じ流れの中で見つめている。
 
上記したように、2017年夏から、毎月一~二回続けていた「現代ビジネス」への掲載コラムは、一昨年(2019年)の正月になって、突然打ち切りになってしまった。その数回前のコラムに、「沖縄(琉球/西南諸島)はどこにある?」というテーマで10数回の記事を書く、と読者に伝え、掲載を始めたばかりなのに、、、。
 
しかし、6月には「天安門事件30周年」の記事を書かせてくれ、その直後に勃発した「香港デモ」についての写真取材を、編集部の名の許に発表、8月になって、やっと自分の記事(「香港デモに於けるマスクの意味」)が掲載された。反響は結構あった。殊に香港&中国のメディアでは大きく取り上げられ、複数の翻訳が成され、香港の出版社での単行本化(欧米の作者たちとの共著)もなされた。しかし、日本のメディア(殊に肝心の「現代ビジネス」自体)からは全く見向きもされず、以降の執筆は許されなかった。
 
そして昨年1月に、「コロナウイルス問題」が発生。僕はリアルタイムで中国に滞在していた。現場の情報を伝えたかった。しかしなかなか書かせてくれない。3月になって、やっと「ある視点からの記事(武漢発祥の背景にあるもの)」が採用された。6月には、「コロナに於けるマスクの違和感」が掲載された。それ以降、編集部とは連絡がつかなくなり、出入り禁止状態になっている。
 
僕の文章が下手くそで、思考能力に欠け過ぎる、要するに余りに幼稚である、ということは、自分でもよく分かっている。しかし、その僕の考え方や、文章表現を喜んでくれる読者も、少なからずいるのである。
 
でも、メディア(現代ビジネス)の側からすれば、そのような読者の存在は、何の意味もない。つまり、僕の記事は「“現代ビジネスとしてのクオリティ”に達していない」ということである。所詮、巨大マスメディアに、僕ごときが逆らうことは不可能なのである(本人としては、別に逆らっているつもりはなく、結構顔色を窺いつつ、かつ自分の考えを素直に表して行こうとしていただけなのだが)。
 
というわけで、(「香港デモ」から継続する問題としての)「コロナウイルス問題」の一年間を振り返りつつ、今に至る道筋を、改めて辿っていこうと思う。
 
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時間が来た(Wi-Fi発信できるスタバなどの施設の利用時間が3時間短縮)ので、以下は端折って(概ね箇条書きに)記す。
 
「香港デモ」も「コロナウイルス問題」も、突き詰めれば、「民主主義の正義」と「共産主義の悪」という構図の上に成り立っている。僕は、必ずしもその理念を否定はしない。しかし、実相は受け入れがたい。「正義のためになら何をしても良い」と言わんばかりに、あらゆる手段を使って「民主主義の正義」を世界に発信する。
 
香港デモに引き続いて、「武漢発祥」の「新型コロナウイルス」が世界を駆け巡ったのは、ある意味偶然ではないのかも知れない。穿った見方を承知で言えば、「香港デモ」勃発半年後、(中国共産党の支配下にあるとされる)香港警察への攻撃が手詰まりとなり、敢えて“武漢”の「箱」を開けた。
 
本来は、世界に向けての中国攻撃のみが目的だったのが、「パンドラの箱」を開けてしまったために、収拾がつかなくなってしまった。いや、もしかすると、“筋書き通りに”かも知れないけれど、中国はしぶといと思う。そう簡単に思惑通りには事は運ばない。案外、利は中国の側にある気もしないではない。
 
これは皮肉で言うのだが、日本の大衆は、共産主義下の体制を(全く無意識的に)望んでいるのではないかと、ふと思ったりする。すなわち、「大衆が望むコロナへの対応」を、「力」に代弁して貰いたい、無意識のうちにそう望んでいる。
 
怖いのはコロナじゃなく、人間の意識だと思う。それは正義(空気と同義語)であり、異質の排除である。
「無意識強要同調空気」「合法的な洗脳」
 
「事なかれ主義」「自己保身」「取得権保持のための異質の排除」
 
それが(日本発で)世界に広がり、世界中が「日和見」の中に置かれている、、、、。

「私(漱石じゃないです、僕です)の個人主義」感

このあと、重要な記事を発信するので、ぜひ読んでくださいね。今それを書いてる最中なので、それがアップされるまでの穴埋め記事です。
 
マスク集団怖い!!!
(特に誰もいないところでマスクしてる人)
 
考えてみれば、もとより日本人はマスク好きなんですね。
 
自己保身。みんなが揃って自分中心(西洋の“攻める個人主義”ではなく“取得権保守”)。それが標準となると、そこからはみ出した“自己中心でない考えや行動”は、集団となった自己中心社会からは、自己中心と見做されてしまう。
 
「隠す」ことに喜びを覚えて(正義を求めて)いるのだと思う。
 
「中国人はお金に汚い」。隠さないから日本人にとってはそう思われるわけで。
 
ともかく、日本人は、以前からマスクが好きです。顔隠してれば、楽なんですね。今(中国など一部の「邪悪国家」を除き)世界中の国々が、日本の「楽ちんな姿勢」(責任逃れ/自己保身)を見習おうとしているように思えます。

 

遺書 99

↓「違和感」といえば、違和感ありまくりの記事です。
 
性的画像 ビーチバレーの苦悩 - Yahoo!ニュース
 
Uqg…さん
ビーチバレーに限っては同情しないな~、、
もう少し露出を控えたら?恥ずかしくて観てられないわ。なんであんな格好する必要有るんだろう。って普通に思いますよ。
 
milk
コメ主(Uqg)さんに同感です。男性ですが、気恥ずかしくなって、見ていられないです。どうしてあんな格好で競技をやらねばならないのでしょうか?確たる理由があるならばわかるのですが、、、。あと、繰り返し使われている「性的」という言葉の意味が、もう一つよく分かりません。あえてその恰好を選んでいるのならば、自ら「健康的」と解釈したほうが良いのではないでしょうか?
 
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「自粛要請」はおかしな日本語と指摘 両立しない言葉? - ライブドアニュース (livedoor.com)
 
どう考えても、おかしな日本語だと思いますね。でもそれが「正常な日本語」として認められている(皆おかしいとは思わないでいる)ところが、今の日本の現状を如実に表していると思います。

遺書98

前回記事、1月16日、コロナ報道一周年に合わせて「遺書第100回」にするつもりで、逆算して適当に「98」としていたのだけれど、あや子さんがちゃんとチェックして、「97」に直してくれていました。それで、今日もうひとつ「98」を追加しておきましょう(笑)。
 
三世との、ここ数日のやり取りが結構面白かったので、それを載せます。
 
【三世】
>愛は大事だと思いますが、ジョン・レノンとオノ・ヨーコには違和感を感じてしまいます。
↑注:何の脈絡もなくこんなメールが来たので、
 
【青山】
>違和感感じまくりです。あれは愛じゃないです。
 
【三世】
>違和感の理由を教えてください。
 
【青山】
>たくさんあります。
>スタバもイオンも8時閉店(あと3分)なので、今日は帰って寝ます。
>あいつらは偽物の愛とか平和です。
>その話題は、明日また。
 
【三世】
>明日待ってます。
>ジョージの陰謀論的にいえばビートルズ時代からユダヤによる芸能界のコントロールが始まったそうです。
 
【青山】
>そのとおりです。
>たぶんジョージ(ハリソンではない身近なほう)の方が、ジョン・レノンより才能あると思います。
 
【三世】
>昔から世の中がみえている青山さんはすごいと思います。
>ジョージもすごいと言っていました。
↑注:褒めすぎ。
 
【青山】
>「ビートルズの正体」みたいなこと書くと、本一冊分になってしまいます(材料は山ほどあるけれど僕にはそれを纏める能力がない)。
>パンドラの箱を開けちゃうと大変なので、閉めたままにしときましょう。
>ちょっとだけ言います。
>ジョン・レノンは、いわゆる「いかにも」な人です(顔みりゃ分かる)。大衆は「いかにも」に弱いですね。すぐに騙されます。
>ビートルズもそこそこ良い曲は作って(あるいは歌って)います。でも、特別なわけではない。
>「いかにも」の空気と、力を持つバックのおかげで、大衆の洗脳に成功したのです。
>ジョン・レノンに才能があるとすれば、その「大衆を騙す」能力でしょうね。
>オノ・ヨーコは言うに及ばずです。彼らの愛は単にHしてるだけで、他は空っぽです。
>コロナと同じです。ジョン・レノンは、マスクみたいなものです。
 
【三世】
>たしかにジョン・レノンはマスクですね。
>オノ・ヨーコと共にすごい薄っぺらさを感じます。
>海外(特にアジア以外)に住んでる、外国人と結婚してる日本人女性が嫌いです。
>変なプライドを持っていて、大体ブスです。日本で拾い手が見つからず、日本人マニアのブス専外国人をゲットしている感が凄いします。
 
 
【青山】
>僕もそう思いますね。
>三世は例外的に素敵ですが(お世辞じゃないですよ)。
 
【三世】
>ジョージも、ジョン・レノン、ビートルズに関して青山さんの言う通りだと言っています。
>ビートルズの曲は心に響かないとも。
>ただのユダヤの操り人形だったんかもしれないです。
 
【青山】
>ビートルズを最初に見出したのは、僕の神さまであるベルト・ケンプフェルトです。ハンブルグのライブバーの地下。その時の名前は、トニー・シェルダン&ビート・ブラザース。
>ケンプフェルトが目を付けたのは、ボーカルのトニー・シェリダンとグループリーダーのステュァート・アトクリフでした。それでイギリスに戻って、プロヂューサーのジョージ・マーティン、マネージャーのブライアン・エプスタインのもと、ビートルズとして再デビューします。上記2人の操り人形として。ステュはその直前に亡くなり、トニーは(リンゴの前のドラマーのピート・ベスト共々)メンバーから外されてしまいます。
>イギリスでは、62年からメジャーになります。しかしアメリカでの反応は全くない。イギリスでの大ヒット曲も、全然無視され続けてきました。63年夏になって、イギリスでのNo.1ヒット曲「フロム・ミー・トゥー・ユー」が、やっとビルボードの116位にランキングされます。しかし次の「シー・ラブズ・ユー」は(リアルタイムでは)チャート圏外。
>そこで、(詳細は略しますが)上記マーチンやエプスタインを中心に、裏の勢力?が集結して、大プロジェクトをうった。それがケネディが暗殺された63年秋のことです。
>翌64年1月18日付けのビルボード誌の84位に「抱きしめたい」が初登場します(ジョニー・ティロトソンの最後のトップ10ヒット「トーク・バック・トレンブリン・リップス」がベスト10から滑り落ちた週)。
>そして、3週間後にNo.1に上り詰め、更にベスト5全部をビートルズの曲が独占し、ホット100に一度に12曲を連ねます。
>アメリカ中が、大狂騒の中に包まれ、「文化」の基準が切り替わってしまうのです。ちなみに、アメリカ中のラジオ局が、朝から晩までビートルズの曲をかけ続けた中にあって、カルフォルニアのラジオ局だけは、ビーチ・ボーイズの曲(「ファン・ファン・ファン」)を一日中かけ続けた、という伝説が残っています。
[付記]
>僕は、ビートルズアメリカ上陸寸前の、1964年1月4日に、神戸元町の大蓄レコード店で、ビートルズの曲を3枚買いました(確か「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」、およびトニー・シェリダンが歌ってクレジットは「ビートルズ」になっている「マイ・ボニー」)。
>おそらく、日本の一般市民としては、最初にビートルズのレコードを買った一人だと思います。

今日も東京は快晴です/遺書98(番号は適当)

東京は今日も、雲一つないピーカンの快晴ですね。
「都心大雪情報」どこに行っちゃったのでしょう。
 
同じこと書くの三度目ですが、天気予報が当たらなくなった、いや、正確には、(結果として)「予報」することを放棄してしまっている。考えてみれば、何年か前からの傾向です
 
大きな自然災害が起こった時、予報できていなければ、強く叱責されます。よって、常に、同じこと「脅威への煽り」を繰り返していれば、致命的な失態からは免れるのです。
 
「天気予報」に関しては、それもありとポジティブに捉えても良いのでしょうが、世の中全体が、そのようなシステムの中で回っているように思います。
 
「責任逃れ」「自己保身」「異質排除」「既得権保守」、、、僕の言う「無意識強制同調空気」も同様。
 
今回(いわゆる「コロナ」)は、「パンドラの箱」を開けちゃった(あるいは透明人間を見てしまった)わけで、収拾がつかなくなってしまっているのです。
 
「パンドラの箱」は開けない(「透明人間」の存在は敢えて確かめようとしない)。それが日本人としての心構え(君子危ゆきに近寄らず)なのではなかったのでしょうか?
 
よしんば開けて(見て)しまえば、そこから一気に湧出した「答えの出ない脅威」から、徹底して逃げる(マスク)か、徹底して叩き潰す(ワクチン)か、脳がないわけです*。
 
「パンドラの箱」「透明人間」を見くびってはなりません。所詮、我々が相手に出来る「敵」ではないのです。愛を持って、仲良くすることですね(そりゃあ、大変にハードな事ですよ)**。
 
まあ、彼らと仲良くしてると、人類大衆からは仲間外れにされちゃうのでしょうが。
 
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*「パンドラの箱」を敢えて開けたのは、「中国湖北省武漢」がキーワード。「香港デモ」からの流れです。
 
**本来、夏が暑いのも、冬が寒いのも、当たり前だし。 

遺書96(数字は適当)

昨日は嬉しいことがありました。スーリンからメールが来た。三か月ぶりです。まあ、この数年は、2~3月置きぐらいしかメールのやり取りしてないので、今回が特別ということではないのですが、しばらくメールがこないと、心配してしまいます。娘が三人(中国2ギリシャ1)もいると、心配事が尽きません(笑)。
 
まあ、それはそれで、、、そう、何というか、人生に潤いを与えてくれているとでも思えば、そうですね、有難いことなのかも知れませんね。
 
ちなみに、プロ野球の試合の勝利のお立ち台に立った外国人選手のヒーローインタビューの第一声は、日本語の“そうですねぇ~”から始まるのが、最近の“お約束”になっているみたいです(阪神だけかな?)。
 
So,,,,
 
日本語と英語で、発音も、意味も、ニュアンスも、強さの程度も、広がりの範囲も概ね重なる単語が、“そう”と“So”。
 
そんなことも加味して、“So”は僕の好きな言葉です。英訳するときも、文章のどこかに、適当に、やたらに差し込んでいます。
 
翻訳といえば、、、、語学力の乏しい僕にとっては、地獄そのもので、、、。
 
ここんところ、起きている間の7~8割は、「中国の野生植物」に取り組んでいます。得意分野=アジサイ、キイチゴ、カエデ、タンポポなど=でないところの、なおかつ一般受けしそうなグループを優先、ということで、シャクナゲ(ツツジ) をひとまず終えて、サクラソウを整理しているところです(このあと、バラとかユリとかリンドウとか青い罌粟とかを予定)。
 
もっとも、原版写真(シャクナゲのセレクト分で2500枚)をモニカにメール送信する作業が大変で、、、マクドやイオンのWi-Fiは速いスピードで送信できるのですが、マクドはWi-Fi自体が繋がらないことが多いし、イオンも色々と問題が山積みで、たまにしか利用できません。結局、一番確実なスタバ主体ということになるのだけれど、スタバは(Wi-Fi自体は確実に利用できるとしても)データの転送が、絶望的に遅い!(マクドやイオンの数10倍の時間がかかる)。いやもう、精神的にメゲてしまいます。
 
膨大な原版写真を整理→重さとか画像状態とかを調節→それをセレクトしてモニカに転送。と共に、一部の写真をワードに張り付けてテキストを作成、中国語に訳すための下訳として、まず自分で英語に翻訳。
 
この作業が、心身ともに疲れます。モニカは、「調節しなくてもそのままでいい」「英訳しなくても日本語のままでもいい」と言うのですが、、、ついつい不安になって、というか、念のためにというか、「画像調節」と「文章翻訳」に取り組んでいるのです。
 
写真の整理については、どれを選ぶか、あるいは選んだ写真をどのような基準で調節していくか、、、、実際の作業自体よりも、「それを決めること」のほうに、多大な時間労力を使ってしまいます(だから、余り考えずに、より多くの写真を送っている)。まとめて送る方法を知らないので、2500枚、アナログ的手法で1枚(実際は7~8枚)づつ送信しています(今日もついさっきまでその作業をしていた)。
 
文章(解説、あるいはメモ)の翻訳のほうも、辛いです。語学力皆無の僕には、チャレンジ自体が土台無謀なのかも知れません。例えば、冠詞の使い方とか、動詞の活用とか、まるで分らない。そりゃもう酷いものです。僕の能力でもってしては、正しい英語にしようとすればするほどドツボに嵌ってしまいます。
 
開き直って、「“ちゃんとした英語”にする絶対的な必要があるのだろうか?」とか、考えたりもします。
 
Send me the pillow that you dream on だって、ひどいのになると、Send me pillow dream on とかまで省略されちゃってる(日本じゃなく向こうで)。それでも、たぶん言わんとしてることは分かるのかも。向こうの人たちは、大して気にしてないのかも知れません。
 
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こんなことを、ふと思いだしました(共に40年以上昔のことですが、その時の“雰囲気”みたいなものを鮮明に覚えてる)。
 
昔、確か初めて北海道に行った時のこと。上野から青森に向かう夜行列車の中で、すぐ近くにいたおじさんたちが、夜通し喋り続けていました。僕は、その人たちを、(日本以外の)アジアのどこかの国の人、と思い込んでいました。朝になって青森に着いて、軽く挨拶を交わしたときに、彼らの喋っていた言葉が、実は日本語であったことが分かりました。
 
やはり、ずっと昔のこと。初めて屋久島に通いだした頃です。屋久島の比較対象地域として、周辺地域(種子島、三島列島、トカラ列島など)にも度々訪ねました。大隅半島南部の「辺塚」という村(稲尾岳の南麓で「ヘツカリンドウ」の名の起源)にも、何度か行きました。村に一軒の旅館があって、そこの若奥さん(たぶん)が、実に僕の好みのタイプで、、、まあ、それはともかく。
 
ある朝、目覚めると、何人かの人たちが喋っている声が聞こえました。「外国人も宿泊してるんだ」と、夢うつつに思っていました。声の主は、若奥さんや、その家族の人たちでした。僕としては、100%外国語であると信じていた。でも、紛い無き日本語だったのですね。むろん僕との会話は、「普通の日本語」を使っていたのですが。
 
いや、どう考えても、日本語には聞こえません(僕の聴覚が可笑しいのかも知れんですが)。青森の端っこの村の人と、鹿児島の端っこの村の人との間に、会話は成り立つのでしょうか?むろん成り立ちますね。そのために「標準語」があるわけですから。でも、互いに地元の言葉で話すとしたら、絶対に意思の疎通は出来ません。そこに、「教育」や「文明」(その象徴の一つが共通言語の確立とその浸透)が助け船を出し、実質的な「単一国家」と成り得ているのです。
 
でも、それぞれの地方の人同士は、それぞれの独自の言葉で会話している。一つの国に、互いに理解不能な言語が何通りもあるのは、いちいち面倒だし、全部「標準語」にしてしまえば良いと思うのだけれど、そうもいかないのでしょうね。より多くの人とは交われないけれど、(それらの世界では成し得ない)より深いプリミティブな人間関係の構築。僕が、その若奥さん(?)の気を惹こうと何か話し掛けるとしても(無論そんなことはしませんでしたが)、深い部分での意思の疎通という点では、絶対的なハンディがあるわけです。
 
もちろん、どちらが良いか、という問題ではありませんね。一つの言語を完全に極めることと、全てをカバーすることとは、目的の方向性が全く異なります。正しくローカルでプリミティブな方言。正確な標準語(“世界”という範囲に置き換えれば国際語=実質英語)。それぞれの状況下で、どちらかを、より的確に使うことで、より分かり敢える範囲が広がる。
 
教育を受け、自己の成長に徹する。プリミティブ(愚鈍と置き換えても良い?) 維持に徹する。むろん両方を自家薬籠中に出来れば、それに越したことはないです。どっちも、(正反対の立場ですが)「一か所への集中」ということでは同じなわけですから。
 
ちょっと、何言ってるのか分からなくなってきましたけれど、面倒なのでそのままにしときます(まあ、痴ほう症老人のプラットホームでの独り言ということでご容赦ください)。
 
いずれにしても、僕は、どっちの能力もないみたいですね。どちらの方向に対しても極めて中途半端で、いわば適当に「ごちゃまぜ」です。
 
圧倒的に下手な中国語でスーリンと会話し、圧倒的に下手な英語でモニカと会話。でも、少なくても、僕にとっては、日本語で自由な会話交流が可能なはずの対日本人よりも、良い関係が築けている(単に人徳の欠如、ということなのかも知れないけれど、笑)。
 
自分のこと以外でも、お手本があります。ギリシャに住む三世だって、相当に出鱈目な英語で、ジョージと(たぶん誰よりも深い部分で)コミュニケートが取れている。
 
それらの現状に満足して良いとは思っていません。でも、それでも良いかも、とは思っています。
 
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蛇足。言葉の意味の持つ「標準」の基準は、時代と共に変わっていくのだと思います。
 
スタバで、一日中、スタッフとお客さんのやり取りを聞いているわけですが、、、。最近、気になって仕方がない言葉。
「大丈夫です」。スタッフ側からもお客側さん側からも、その言葉が発せられる頻度が、余りに多いような気がするのです。いや、どこが変なの?気になるほうが可笑しい、と言われればそれまでなのですが。
 
客:コーヒーください。
店員:食事は大丈夫ですか?
客:大丈夫です。
 
本来ならば、
客:コーヒーください。
店員:食事は必要ですか?
客:いりません。
ではないかと思うのですが、、、。
 
本来「O.K.(=前向き)」の意味を持つ言葉が、「NO」の代用にされてしまっているような気がする。
 
「ノー」とあからさまに言っちゃいかんのが(あるいは「必要かどうか」をストレートに相手に尋ねないことが)日本の礼儀なのかも知れません。いつの間にか、それが「標準」になっているわけです。
 
もっと端的なのは、「よろしかった」。1000円でよろしかった(よかった)ですか? なんて言われても、よろしいも何も、僕の中の標準で真面目に反応すれば、過去形で対されることに、どんな思惑が含まれているのか戸惑うしかないのだけれど、それが標準になってしまっているのだから、(戸惑いは無視して)素直に溶け込むしかありません。
 
「学問」「教育」「空気」一体になって、大衆の間で力をもった「基準」が、そのつど「標準」となるのです。
 
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話がまた逸れ過ぎました。
 
で、いきなり結論に持っていきます。
 
「メモや解説の翻訳」についても「写真の整理や調節」についても同じことが言える(全く別次元下の同質要素)
のではないかと思うのですが、、、、。
 
言語にしても画像にしても、「焦点(目的とする部分)がぴったり」という必要性はあると思います。でも、それが成された瞬間に、周辺は消える。写真の色合いや鮮度などを調節しようとして、その時は“よし、これで決定!”と思っていても、後で改めて見直すと、最初にあった良さのどこかが、欠けてしまっている。
 
柔らかさ、暖かさ、広がり、、、のような部分と、鋭さ、透徹、集中、、、のような部分の相関性。
 
言葉を統一・固定することで、より多くの世界の共通認識が為されるわけですが、対象が明晰になればなるほど、広がり、曖昧さ、付随する“一見無駄に思える”部分、、、いわば「動き」のようなものが失われていく。
 
僕は、必ずしも「曖昧であること」を「よし」としているわけではありません。統一性の構築・基準の追求は、必要だと思っています。でも、それをもってのみ「正解」「正義」を導き出すことに対しては、どうしても拒否反応を示してしまいます。
 
体系的に、方法論に沿って、理路整然と進められていく、「教育」や「文化」に対する過信を、最近の日本社会の中に感じてなりません。
 
・・・・・・・・・・・
 
太陽と暗闇は共存しうる(結論を言えば、してると思いますが)のでしょうか?
考えてみれば、地球に「昼」と「夜」がるのは、凄い事なのかも知れません。
 
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僕が大嫌いなのは、例えば、ローリング・ストーンズ誌(注:ローリング・ストーンズは大好きです)のような方向性、、、、ただただ空気に乗っかって信望する、実は自分たち自身が「カウンターを受けるべきカルチャー」になってしまっていることに気が付いていない、カウンター・カルチャーの民。
 
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ブライアン・ウイルソンとマイク・ラブがいてこそ、ビーチ・ボーイズです(カール・ウイルソンが亡くなった後、アル・ジャーディンが「カールのいないビーチ・ボーイズはビーチ・ボーイズではない」といって実質解散に至ったことは、また別に考えましょう)。
 
ずっと後、ビーチ・ボーイズの呪縛から解き放たれて自由になったのであろうブライアンに、日本の某音楽評論家が、このような質問をしました。 
「改めて今、(作詞作曲の)コンビを組むとしたら、誰を選びますか?」
ブライアンは即座に「マイク」と答えました。
質問した日本の(ブライアン信者の)その音楽評論は、(彼からすればまさかの答えに)「そ、それは無いんじゃ、、、」と、戸惑ったそうな。「空気」に乗っかるだけの大衆の多くは、その程度の感性しか持ってないということでしょう。
 
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辻邦夫(たぶん生涯かけて「現象を明確に切り取り表現する」ことに尽くした人)と北杜夫(たぶんその対極)は、非常に仲が良かった。
 
辻邦夫さん、、、、、。
 
こんなこと(いわば“犯罪行為”の自慢と変わらない)は、公に書いちゃいけない(でも、当日にもちょっと書いた)ことだと思うのですが、、、。
 
北杜夫さんが亡くなられた日、新宿から中央線で立川に戻る途中、吉祥寺の手前で隣に座っている人が読んでいた(夕刊フジだか日刊ゲンダイだかの)新聞記事が目に留まりました。
「作家の北杜夫氏が亡くなった、通夜はお断りします」
咄嗟に吉祥寺で下車し、井之頭線に乗り換えて(何年かぶりで)東松原に向かいました。親しい人たち・身近な人達や、交流のあった作家や有名人の方々も、「約束事」を守って通夜を控えていたのです。なのに、敢えて押しかけた。決して、容認されるべき行為でないことは、分かっています。でも、どうしても、最後にお会いしておきたかった。
 
約束破りの訪問にも関わらず、奥さんは招きいれて下さいました。応接間の、冷凍処置を施された遺骸の前で、最終電車ぎりぎりまで、話をしました(「昆虫の話が出来て喜んでると思う」、と言ってくださった)。
 
棺以外には何もない簡素な応接間の壁際の、ガランとした大きな本棚の真ん中には、手塚治虫の「火の鳥」の全集だけが収められていました。
「地震のあと、本棚の倒壊を未然に防ぐために蔵書は全て処分したのだけれど、この本だけは身近に置いておきたいと、最後までここに残していた」とのことです。
 
あと、棺の傍らに、先に亡くなった辻邦夫さんの奥さんからの花束が置かれていました。
 
思えば、北杜夫さん本人とは、いつも挨拶程度しか言葉を交わさなかったのですが、奥さんには、(ときどきお金を借りに行ったりしていたので)しょっちゅう怒られていた。頑張ることだけが、恩返しだと思っています。
 
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話が飛びまくりです。以下も全然違う話題です(北杜夫さんのことに触れたのは、この流れからですが)。
 
人生で、何年かごとに、斎藤緑雨に嵌ります。今回は、かなりどっぷりと嵌ってしまっている。先日、その流れで坪内逍遥の「小説神髄」と「当世書生気質」*に関する明治文学関係の文献をネット・サーフしていた時に、ある評論家の読書感想コラム(立宮翔太さんという方の「文学どうでしょう」)で、北杜夫の「船乗りクプクプの冒険」が紹介されているのを見つけました。
 
*「坪内逍遥」「小説神髄」「当世書生気質」については、僕の中では否定や肯定を含む様々な思いがあって、とてもここでは書ききれないので、触れません。
 
「船乗りクプクプの冒険」。凄く推奨されていて、ちょっと嬉しくなりました。
 
僕のfavorite小説は、
北杜夫「船乗りクプクプの冒険」
澁澤龍彦「高丘親王航海記」
前者には中学生の頃、後者には40歳を過ぎてから出会ったのですが、内容(エキス)はそっくりですね。
 
そういえば“Sloop John B.”(ビーチ・ボーイズ以前にも多くのミュージシャンによって歌われている)の歌詞にも、両者との共通要素が感じ取れます。
“I Wanna Go Home”、、、、僕は、このフレーズに弱い。
(あともうひとつ挙げれば“Let Me Go”)
「連れてってソング」と「帰りたいソング」。
(連れてってくれる人もいないし、帰るべきところもない)僕には縁のない言葉なのですが、なぜか、たまらなく惹きつけられるのです。
 
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支離滅裂になってしまいました。
 
駅のプラットホームも、メディアのプラットホームも、ひと括りすればインフラの場の一つなわけで、どちらにしても“それ自体”には意味はなく、そこから「電車に乗る」「情報を発信する」ことで、初めて意義が齎されます。
 
プラットホームで独り言を呟くのではなく、なんとか「電車」に乗る工夫をせねば、と考えている今日この頃です。

遺書 95

「遺書」としたのは86までで、その後の数編は別タイトルで掲載しました。その数編を「遺書」の一つとしてカウントすると、今回が第95回かな? 
 
一日一回とすれば、1月15日にはちょうど100回に達する予定です。翌1月16日が「コロナウイルス人-人感染認定発表日」から一年目。それに合わせて「101回目」ではなく別のもっとインパクトの強いタイトルに差し替える予定でいたのです(でも待ちきれずに数編前から既に変えている)。 
 
「百物語」なら、そこでお化けが出るわけです。手塚治虫も森鴎外も、独自の「百物語」を著しています。全然お化けなど出てきません。もっと「本質的」な部分を表現しています。
 
この2人、他に余り例を見ない共通点があります。年齢2歳胡麻化していること。年齢の誤魔化し自体は結構あります。ただし「若い方」へのサバ読み。アメリカン・ポップスの世界では、胡麻化してない歌手を見つけるのが難しいほど、みなそろって胡麻化している。エルヴィス基準(1935年生まれ)、リッキー基準(1940年生まれ)の話は、ずっと以前のコラムに書いたので、興味ある方は探して読んでください。概ね2歳(Johnny Tillotsonもその口)、5~6歳も結構あって、何人かの猛者は10歳以上サバを読んでいます。
 
鴎外と手塚治虫は、逆に年上のほうに2歳サバを読んだ。余りの早熟天才ゆえ、そうせざるを得なかったのでしょう。
 
来たる1月16日の“101回目の遺書”は、「僕の百物語」というわけです。むろん鴎外や手塚治虫のとは、比較の対象にもなりませんが、僕なりの「百物語」を目指します。お化けを出す代わりに、正面から、世間と戦っていきます。 
 
と気負ったところで、誰かに読んで貰わないことには、どうしようもない。客観的に考えれば「遺書」ではインパクトが弱すぎます。とにかく、不特定多数の人々の目に留まるキャッチ―なコピーでなくてはならない。101回目まで待ちきれずに、既に幾つかを試して見たのですが、余り効果はないようです。
 
なんか大きな事件でも起こしちゃえば注目されるのかも知れませんね(それでもマスコミによるバイアスの匙加減闇なんでしょうが)。ブログに物騒な内容を記述するとか(ユーチュバーなんて綱渡りでそんなことを続けているのでしょう)。
 
一体、どのような「表明」をすれば大向うに注目されるのか、一度は試して見たい気持ちもあるのですが、、、もちろん、騒ぎになれば困るので止めときます(笑)。
 
案外、相当に物騒(危険)なこと書いても、無視されてしまうんじゃないかという気もしますね(炎上狙っても炎上さえしないみたいな)。
 
ま、永遠の疑問、として残しておきましょう。
 
結局、どんな扇情的な言葉で煽っても、最初からスルーされる場(空気の居場所)にあれば、相手には届かない。どうやって、不特定多数の人々の目に留まるプラットホームを見つけ出すか。それが問題です。
(あや子さんや三世も知恵を絞って考えてください)
 
ちなみに、例えば「現代ビジネス」の記事ならば、僕の記事でも100万人単位の人がチェックしてくれます。けれど、「ブログ」に全く同じ記事を書いたところで、見ている人は100人もいないでしょう。中身読んでる人は、下手すりゃゼロかも知れません。
 
まあ実際は「現代ビジネス」の記事であっても、ちゃんと読んでる人は数千人とか数万人の単位でしょうから、受け取るコメント数でいえば、100前後から多くて1000ですね。でも、自分のブログだと、ゼロなわけで(もう何十年もの間ほぼゼロです)、多い少ない以前の問題なわけです。
 
そりゃ、メジャーメディアからの発信と個人の発信では雲泥の差があることは当然でしょうが、個人のブログにだって、結構コメントが来ているのもあります。まあ、僻みになってしまいますが(笑)、概ね内容の詰まらなさと、大衆受けとは比例しているようですね。
 
そのコメントについて、ここではメジャーなメディアの場合について考えてみましょう。別に僕の記事に関してということではなく、一般的に見て、ということで。
 
賛同にしろ反対にしろ、圧倒的に多いのは、「同じ意見」なわけです。100人からの反応があれば、1人ぐらい「異論」が混じっていても良さそうなのですが、大抵の場合、全てのコメントが「正論」で埋め尽くされます。
 
ごくごく稀に「異論」が混じっていれば、「正義に歯向かう悪」と見做され総攻撃を受けます。
 
理想は、異なる意見が半々、だと思いますが、そういった例は、滅多にないですね。
 
せめて「正論」が8とか9で、「異論」が1とか2、、、、その辺りが、一番健全、というか、安心するのですけれど、それもなかなかない。「共感を得る」か「反発を買う」か、どっちかしかないわけです。
 
結局のところ、共感を得るのは100人に一人ぐらいでしょうから、まずは100の人に伝達することから始めなくてはならない。
 
それには、100人中99人が反発することを書けば良いわけで、、、でも、よほどのインパクトがなくては、引っかかっては来ないでしょうね。
 
「私は明日何時何分000(場所とか有名人とか)をXXします」と書けば、(望み通り)網にかかるのでしょうか?
「私は明日何時何分000(場所とか方法とか)でZZします」と書けば、ちょっと待った、と(救いの手で)さし止められるのでしょうか?
実際に試してはみても(僕は試しません!笑)、結局はスルーされてしまうのではないかという気がします。
 
それはともかく、有効な「釣り」の方法を考える(水のないところで糸を垂れている可能性があるので「釣り」以前の問題という懸念はありますが)。幾つか例に挙げときます。
 
●韓国素晴らしい!日本はクズ。
●中国共産党万歳!!
●秋篠宮(「眞子さん圭くん」でもいい)は立派な人、世間の批判にめげず頑張ってください。
●上を(英国元メーガン妃)に置き換えてもよい。
●上を「二階さん」に置き換えても良い。
 
●みんなでマスクを外しましょう。←昨日のブログはこれにしました。
 
上記各例、僕が(必ずしも)そう思ってるわけじゃないですよ。
 
●コロナから身を守る方法(「秘訣」でもよい)を教えます
↑案外これかな?

ワクチン

WHOのテドロスさんが、「高所得国家がワクチンを独占しないように」
という声明を出しましたね。
 
それに対してのヤフコメたちの意見。
「俺たちが金出して作ったんだから、俺たちが先に使うのは当然だろ?」
民主主義国家市民の本音でしょうね。
どうぞ真っ先に思う存分使ってくださいな。(長い目で見れば)たぶん役に立ちませんから。

みんなでマスクを外しましょう!

以前から毎年、ウイルス性肺炎の脅威に悩まされ続けている我が身としては、突如湧き出したマスク(必須)集団社会(もともと日本人のマスク好きには呆れていたのだけれども)は恐怖です。
 
マスクしてない人みると、なんだかホッとしますね。
 
飲食店(スタバを含む)内は別です。半分ほどの人がしてません。だから別にホッとはしません(むしろ苛立つ)。
 
どうせなら、飲食もマスクしたままして欲しいですね。アレするときもマスクしたまま(というか、アレ自体しちゃいかんでしょう)。

問:コロナはいつ終結するのでしょうか? 答:永久に終結しません。

とにかくブログ読んでくれる人がいないと書く意味がありません。「釣りタイトル」をいろいろ考えて、これにしました。
 
相変わらず大衆は、壊れた蓄音機(例えが古い!笑)のように、全員がおんなじ「正義」の意見。
 
ネットニュース(なかんづく記事に対するヤフコメ)など精神に悪いので見ちゃいけないのだけれど、怖いもの見たさ(笑)でついつい覗いちゃいます。
 
「皆おんなじ方向性」「事なかれ主義」「取得権の保持」「責任逃れ」「異質の排除」「合法的一律洗脳」そして何百回でも繰り返し言うけれど「無意識強要同調空気」。
 
頭のいいアホたち(人類、ことに日本人の大半)には、自分たちがどれだけアホなのか、永遠にわからんのでしょうね。
 
あるコラムへのコメント、もちろん皆一斉に同じ意見(正義の意見)の大合唱。
 
↓これなども、もちろん、「正義」(のヤフコメ民)が「悪」を揶揄してるわけですが。程度が低すぎます。
 
日本医師会中川会長の連日の記者会見を要約すれば…
①『我々はコロナに関しては全くの無能力者です』
②『厄介ごとを我々に押し付けないでください』
③『根拠はありませんが感染拡大は飲食店と国民のせいです』
 
でも、笑ってしまった。これ(会長の言ってること)、当たってると思います。
 
そもそも、あらゆる「表現」は、微妙な伝達様式の差(語彙の選択)で様々な解釈が為されるものと思います(例えば、別の言語に直訳すれば上記①~③からもネガティブさが消えるかも知れない)。ということで、「別の日本語」に訳してみました。
 
⓵『皆さんの言う「(いわゆる)コロナ」というものが何であるのか、我々は実態を知らない』
⓶『医学だけで解決できる問題ではない』
⓷『マスコミや大衆が導く「空気」のバイアスによって、いわゆる「感染拡大」が成されている』
 
そういうことだと思いますよ。

コロナ遺書

マスクとワクチンが人類を滅ぼす。
 
繰り返し言いますね。
 
これ(現在の世界の状況)は単に「コロナ」云々の問題ではないのです。もっと大きな、「人類の在り方」の根源に直結する問題です。
 
風邪は、非常に恐ろしい病気です。それに伴うウイルスも非常に恐ろしい。「恐ろしい」ということで言えば、全ての現象が恐ろしいのです。僕の存在だって、あなたの存在だって、ある意味「恐ろしい」。
 
病気も、ウイルスも、敵であると同時に仲間でもあります。人類の力を過信して(あるいは過小評価して)、それを叩き潰す・排除すること(あるいはそこから逃げること)だけを考えていても、なんの解決策にもなりません。
 
そろそろ、自己保身、リスク管理、異質の排除をひたすら行い続ける社会から、脱却しませんか?

遺書86

なかなか「遺書」が終わらないので、100回目が来たら、別の表題に変えようと思います。
例えば(いつも同じこと言ってますが、笑)、
 
「正義が悪を滅ぼす」「マスクとワクチンが人類を滅ぼす」
 
表題にはちょっと長いかな?
 
・・・・・・・・・・
 
もっとも、のんきに「遺書」なんかで時間つぶしているわけにはいきません。「中国の野生植物」全100巻(原版写真10万枚超&テキスト1万頁超収納)、半端な覚悟では取り組めない。いちいち英訳してるので、、、一日僅かしか進まない。自らの語学力の低さを恨みます。
 
あと、本職(?)の「中国蝶類大(?)図鑑」の作成(毎年少しずつ進めてはパソコン関係のアクシデントでもって一からやり直し、の繰り返し)も、並行して進めようかと。こちらも、全100巻1万頁ぐらいになりそうで。
 
「アジサイ」も「ヒグラシ」も「野生のレタス」も、、、、、。一体あと何年かかることやら。時間が(お金も)足り無さ過ぎます。
 
んなこと言いながら、ここ数日、夜、部屋に帰ってからは、斎藤緑雨とか広津柳浪とかを読みふけっています。昨夜は久しぶりに柳浪の「今戸心中」を読み返してみました。
 
んで、相変わらず、飽きもせず、ジョニー・ティロットソンを聞いて、最近は、恥ずかしながら、ドリス・デイ(古い!)とかリンダ・ロンシュタッド(僕より2歳上だけれど僕にとっては新しい世代の歌手)とかに嵌っていて(好みのタイプなので〃▽〃)、、、。今の人からすればどっちも古いですかね。

 

そして、いつものとおり、睡眠剤飲んで、ベルト・ケンプフェルトを聞きながら寝ます。

遺書85

今の世の中は、「無自覚集団性合法的洗脳」から成り立っている、という、顕著な一例です。「洗脳」されてない人は、まるで非人間扱いという、、、。
 
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6381064
「記事」そのものではなく、膨大な“正義の”コメント群に注目してください。
そのなかに、doaさんという方の、異質の(多くの人から見ればたぶん場違いな)コメントがありました。それに対して、gogさんという方が「コメ主さんと同様の意見がないのにビックリ、嫌な世の中だ」というリコメントを寄せられています(僕もdogさんやgogさんへの賛同リコメントをしておきました)。
 
まあ、3歳、73歳には、さすがにキツイとは思いますが(笑)。

遺書84 謹賀新年

数日前の天気予報では、年末年始、(日本海側だけでなく)東京の山沿いでも大雪になる、と言っていたのに、今日元旦は、雲一つない快晴です。それはそれで良い事だと思います。
 
よく言えば「万全の準備」、別の言葉に置き換えれば「責任逃れ」。
 
リスクを避ける。異質な存在に遭遇したときは「逃げる」(例えばマスク)、あるいは「叩き潰す」(ワクチン製造)。「受け入れる」という選択肢はないみたいですね。どうやら、人類の(中でも日本人の)選択肢が、「異質の排除」のみに収斂していきつつあるように思います。
 
今年のテーマ
「マスクとワクチンが人類を滅ぼす」
で行きます。
 
「コロナはただの風邪です」
「マスクはパンツになるのか?」
「マスクと民主主義」
「マスクと香港デモとコロナウイルス」
 
「マスクは“正義”の象徴」でも良いかも知れませんね。諸悪の根源は「正義の標榜」で、換言すれば「無意識強要同調空気」(集団性合法的洗脳)の形成、という僕の考え方の基本スタンスは、これまでと変わらないので。
 
ということで、「コロナはただの風邪」ということの説明に、これから一年がかりで取り組んでいきます(「科学的」という表現は嫌いなので、「本気で一生懸命に」と言っておく)。
 
たとえ一人でもブログを覗いて貰えることを信じて、誰よりも真面目に、正面から真剣に「コロナ」(呼称についての見解は以前のブログに書いた*のでそちらを参照してください)を考えていきます。ちなみに、僕は「コロナ」の呼称使用も、「マスク」の着用も、断じて反対する立場にあるのだけれど、とりあえずは一般常識に従ってます。まあ、ダメな人間ですね(笑)。
 
*遺書 4 2020-07-31 08:32:06 | 香港デモ、新型ウイルス、日記
「国際ウイルス分類委員会」の分類基準に基づく(以下同)ウイルスの種数は、2019年時点で6590種(むろん、生物の場合同様に研究者ごとに見解は異なるはずです)。
 
*青山潤三日記 2020.6.8 2020-06-08 14:11:52 | 「現代ビジネス」オリジナル記事
「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感 ただの「同調圧力の象徴」になっていないか
 
まあ、こんな記事を書いたりしたこともあって、メジャーメディアからは排除されてしまってはいるのですが。
 
それはさておき、今日はおめでたい元旦(最近の僕にとっては「中国の春節」初日のほうが元旦を実感するのですが)なので、(途中、チャーリー・プライドの追悼記事を除いて)約3か月間(「社会の窓から」の方は半年以上)中断していたブログを、再開することにします(そのうちにまた中断してしまう可能性大)。
 
ブログ更新を中断していたのは、別に確たる理由があったのではなく、「中国の野生植物」全100巻(各巻原版写真2500枚+テキスト100頁強収納)の作成(殊にその英訳)に没頭していたから(今やっと一巻目が完成)で、他のことに取り組む余裕が無かったのです。
 
年が明ければ、改めて「遺書」を継続すべく、年頭最初の話題は、一週間ほど前に決めていました。なので、唐突ですが、その記事の紹介を。
「絶対に殺してはいけない」現場が声を上げた死刑囚…その最期の瞬間に待っていたもの(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
僕のコメントは控えます。
この話題には、様々な暗示が含まれています。
(これに関わらず興味深い記事はいつもそうですが、記事そのものよりも読者のコメンの方が興味深い、、、それを読んでいて、大抵、「健全な人々の“心の貧しさ”」が、哀しく情けなくなってくる)
 
話は変わります。「様々な」といえば、ここしばらく、筆舌し難いほどの様々な嫌な目に会って、、、というよりも、辛く哀しい思いに晒されてきました(概ね「立派で健全で平和的なエリート市民」からの、僕のような「下層」人間に対する、無意識な侮辱的対応に収斂されます、笑)。
 
ということで、以下、私的な状況報告、および将来の計画など、長々と記して行こうと考えていたのですけれど、書く側もしんどいし、読む側(読んでくれる人がいるとすれば、ですけど)もさぞウザいだろうと思い直し、全部割愛することにしました。
 
でも、やっぱりちょっと私的な状況について書いておきます(もう冒頭から4回ぐらい方針変更)。
 
僕は、ずっと前から(かれこれ20年以上)“コロナ(広義)”に苦しんできたのです。まあ、僕だけでなく、毎年寒い時期には、大抵のお年寄りが似たような状況下に置かれているはずです。すなわち、風邪を拗らせての修羅の苦しみ。
 
一昨夜も、ポップコーンの糟が歯に挟まって、それを取り除こうとしたら、内口蓋の内側に滑り込んでしまった。これはヤバいと大きく咳き込み続けたら、それで喉をやられそうになった。この流れで(別に新型コロナでなくても)何らかのウイルスが関与すると、肺炎に至ります。
 
毎年のように、いわゆるコロナがあろうがなかろうが、それで苦しんでいるのです。
 
コロナは、一言でいえば、ただの風邪です。
 
そして、「ただの風邪」は、非常に恐ろしい病気です。
 
毎年毎年、なんらかのウイルス(それをコロナと呼ぶなら呼んでも良いのでしょうが)が関与して、多くの人が肺炎 に罹り、多くの人(殊に老人)が亡くなっています。
 
と、ここまで書いたところで、元旦になってしまいました。そろそろ寝なきゃいけない。で、5たび方向転換します。1月2日以降の記事用に並行して書いていた文章のほうが、やや纏まりが良いみたいなので、強引に、そっちのほうを付け加えておくことにします。
 
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みなさん、健康に気を付けられていますか?
↑これが、記事の導入部です。
 
一昨日、12月30日(ただし旧暦)は、明治の作家・斎藤緑雨の誕生日だったので、彼に関係する文献を幾つかチェックしていました。
 
明治27年5月19日、斎藤緑雨(26歳)から坪内逍遥(34歳)に宛てた手紙の一節(途中から)。
 
『さてさてと申すばかりの身の上に候、されど飽くまで食い違う方妙ならんと在候、聞けば不知庵もよほど窮しいる由、されど小生ほどにはあらざるべし、唯身ひとつのことならば、小生はなかなか身ひとつとは行かず、色々のもの附いて廻り、今や執達士の手中に落ちて、来る月曜日は公売処分を受くるなり、筆持つ貧乏は沢山あれど、これは小生が魁けなるべし、(以下略)』 
 
いわば貧乏自慢(笑)をしてるわけで、のちに島崎藤村(ちなみに友子さんは藤村大嫌いで、僕も同じく大嫌いです)が緑雨を評して「才は余りあれど、学は足らず、従って新しい時代に伴うを得ない、鈍物ではないが、又その先頭に立つことは無論出来ない人であった」と言っているような部分でもっても、「肺病」と「貧乏」のため陋巷に窮死した緑雨に対し、僕は多大なシンパシーを覚えているのです。
 
「才は余りあれど学は足らず(従って新しい時代に伴うを得ない、、、)」いいですねぇ。「才はあらねど学はある」(よって新しい時代に伴う)より、よっぽどいい。
 
上の文章(手紙の一節)は、「明治文学遊学案内(筑摩書房)」に再録された「斎藤緑雨と内田不知庵(魯庵)」(坪内逍遥)からの引用で、逍遥は(藤村らと違って)緑雨を非常に評価しています。
 
同じ書籍の次の項目には、「二葉亭余談」(内田魯庵)も紹介されています。これがまた面白い。結びの、愛情の籠った一節。(親友・二葉亭四迷を一言で評すと)「極めて常識に富んだ非常識な人で、矛盾だらけな性格破産者」。
 
明治文学といえば、漱石、鴎外、あるいは、一葉、露伴、紅葉といったところがトップに来るのでしょうが、その次あたりのポジションに置かれる、(ここで触れた)逍遥、二葉亭、魯庵、緑雨、、、といったところに、僕はより多くの魅力を感じます(僕のブログの記事で最も気に入っているものの一つが、2013年6月に掲載した「柳浪/眉山」柳浪/眉山 - 青山潤三の世界・あや子版(goo.ne.jp))。
 
ちなみに、緑雨は36歳で亡くなった(誕生日は慶応3年12月30日、漱石・子規・露伴・紅葉らと同年ですが、西暦に当てはめると一年遅れの1968年)わけですが、明治の作家たちは、どれくらいの寿命を得たのでしょうか?
 
主たるところ(明治元年以前は旧暦相当、右の没年は全て満年齢)を思いつくまま順不同に並べました。
夏目漱石(1867~1916=49)/森鴎外(1862~1922=60)/幸田露伴(1867~1947=80)/坪内逍遥(1859~1935=75)/二葉亭四迷(1864~1909=45)/尾崎紅葉(1867~1903=35)/山田美妙(1968~1910=42)/饗庭篁村(1855~1922=66)/森田思軒(1861~1897=36)/内田魯庵(1868~1929=61)/北村透谷(1868~1894=23)/樋口一葉(1872~1896=24)/広津柳浪(1861~1928=67)/川上眉山(1869~1908=39)/泉鏡花(1873~1939=65)/徳田秋声(1871~1943=71)/島崎藤村(1872~1943=71)/田山花袋(1871~1930=58)/徳富蘆花(1868~1927=58)/小杉天外(1865~1952=86)/小栗風葉(1875~1926=51)/国木田独歩(1871~1908=37)/幸徳秋水(1871~1911=39)/正岡子規(1867~1902=34)/落合直文(1861~1903=42)/与謝野鉄幹(1873~1935=62)伊藤左千夫(1864~1913=48)、、、、。
 
アトランダムに、ざっと20数人を挙げましたが、現時点での僕よりも長生きをした人は、坪内逍遥、幸田露伴、小杉天外の三人しかいません。明治の著名文人の多くは、僕より若く(それも概ねずっと若く)亡くなっているわけです。それにしても、樋口一葉24歳、、、、僕から見れば孫の歳です(でも作品は永遠に残る)。
 
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僕は今年で73歳になります。今の感覚では、それほどの歳ではない(?)のかも知れませんが、昔なら結構な年齢です。そろそろ消えてしまっても、文句は言えない歳だと思います。
 
不思議とまだ生きているわけですが、体も心もボロボロです。病気というよりも、10年近く前の大怪我が原因です。
硬いドングリを噛み砕き損ねて奥歯をクラッシュ。中国に於ける出鱈目な手術でもって、歯と鼻孔の間が空洞化し、腦蓋の隙間に膿がびっしりと溜まり、それ以前から病んでいたウイルス性肺炎を併発して、足が紫色に膨れ上がって切断寸前、目は真っ赤になって失明寸前の危機。今でも、飲んだ水は鼻から(時には目や耳から)出、それは良いとしても、食べた固形物が軟口蓋の内側から気管に至る「誤嚥」を、ほぼ毎晩のように繰り返して、七転八倒の苦しみ。本人は筆舌に尽くせぬ辛い思いをしているのですが、検査をしても何一つ異常が見出せません(唯一、血圧が異常に高く200前後、、、もっとも、それが高すぎるという認識は全く持っていませんでした、現在は投薬を続け150台)。
 
いずれにせよ、見かけ上は「5体満足」、歳(73歳)の割には、若く健康そうに見えるのです。それはそれで、不満です。とにかく、本人としては、生きているのが不思議なほど、辛い。特に午後になると、頭も胸もお腹も、どうしようもないほど苦しくなる。
 
例えばマクドナルドで夜間清掃バイトをやるとします。ゴミ出し、床の油掃除など、かなりの重労働です(どの職種でも言えることでしょうが、大体、20歳前後の体力抜群の若者が客対応、それはそれで良いとしても、70オーバーのジジババに重労働を課すというのは、何かおかしいような気がする)。
 
僕の場合は普段昼型生活なので、夜型への変換が結構難しくて、失敗すると覿面に体調を崩してしまう。作業中に倒れて(上には内緒で)救急車を呼んだりしなくてはなりません(知れると即クビ)。
 
昨年2月1日に帰国後、そろそろ丸一年の日本滞在(数10年ぶり)になります。
 
年金3万5000円と家賃がバーター(膨大なポジフィルムとかセミの鳴き声のテープとかの資料を収納した150箱の段ボールがあるために部屋を出るわけにはいかない)。ちなみに中国広州のアパートの家賃(8000円)は、弟子のモニカが支払い続けていてくれたのですが、当分帰れる目途も立たないので、先日解約して、置いてあった数多くの資料はモニカの実家に移動しました。
 
日本の公的機関も、民間援助機関も(ハローワークやシルバーセンターでさえ)、僕のようなイレギュラーな人間には、 目を向けてくれません。その分イレギュラーな形で生活保護を受けているわけです。
 
支給額は、なんだかんだ差し引かれて実質6万円台。そのうち、2年前にクラッシュしたHDDを取り戻すための修復費用支払いに、毎月3万円を回します(あと一年で完済)。命より大事なものなので、最優先は当然です。生活は二の次。
 
しかし、外野は分かってくれませんね。そんなことせずに生活費に回しなさい、命あっての物種、と。でも、命なんて、早かれ遅かれ尽きてしまいます。「仕事」は(地球が存在する限り)永久に残る。どんなことがあっても廃棄されることを阻止し、取り戻して後に引き継がねばなりません。
 
というわけで、手取り6万円の半分の3万円、一日1000円が生活費というわけです。Wi-Fiが必須なのですが、部屋で使える携帯Wi-Fiの購入は僕には出来ません。契約条件として、携帯電話ひいてはクレジットカード所有が課せられています。僕はそれらを持てません(理由は教えてくれない)。
 
中国や東南アジアでは、安い携帯Wi-Fiが、(それこそ「身分」を問わず)室内を含めてどこでも常時使えて便利なのですが、日本の社会に於いては、僕のような「身分」の人間は、そのことを遮断される。
 
ということで、日本に滞在中は、必然的に、スタバとかマクドとかイオンとかファミレス各店とかに行かざるを得ません。(ここでは細かい事情は省略しますが)なんだかんだで、メインはスタバ利用になってしまいます。
 
スタバはコストが最もかかる(ドリップコーヒー代319円)のだけれど、かかりつけの病院の近くということもあって、結果としてほぼ毎日通っています。
 
朝8時20分起床、顔を洗って(ガスを止められていてお湯を沸かせないので真冬も水シャワー使用)、8時30分に部屋を出、急ぎ足で最寄り駅に行き、8時42分の電車に乗って3つ先の駅(170円)に8時49分到着、スタバの前で10分間待機し、9時ジャスト(コード席確保のため)の開店から、夜11時の閉店まで、319円のドリップコーヒー一杯で粘ります(スタッフの人たちには事情を話してあって、暖かく受け入れてくれています、実に感謝しているのです)。
 
ひたすらパソコンに向かって、いつ終わるとも知れない(単純計算では10年や20年かかりそう、笑)写真の整理を、一心不乱に行い続けています。その間、原稿を書いたり、調べものをしたり、たまに(例えば阪神タイガースがらみとかの)ニュースコラムを見たり(しばしばコメントも入れる、笑)、クラヴィング・エクスプローラでアメリカン・ポップスの曲をユーチュブから取り込んだり、自分が書いた記事を一つ一つ英訳してモニカに送ったり、、、、。
 
とにかく、朝9時にオーダーしたコーヒーが、夜10時を過ぎてもまだカップに残っているほど、集中してパソコンと格闘しているわけです。
 
途中、一応昼飯で隣の松屋へ。牛丼小330円(経済的余裕があるときは90円でおしんこ追加、あるいは「餃子の満州」で429円の餃子ライスセット、、、これがまた美味しい、、、今の我が身には贅沢すぎるけれど)。いずれも速攻5分で食べます。
 
夜10時を過ぎると、階下の西友地下で半額弁当を100円前後で購入、10時55分にスタバを後にし、10時58分の電車で11時06分アパート最寄り駅着、11時20分自室に帰り着きます。買ってきた半額弁当を食べ(その際 ほぼ毎回のように誤嚥で苦しむ)ながら、更に2時間余、ミカン箱の上に置いたパソコンに向かい、睡眠剤を飲んで、 ベルト・ケンプフェルトの音楽を聴きながら、原則(決めてるわけではないですが、たまたま)01時20分就寝。ちょうど7時間の睡眠時間です(きちんと眠らねば覿面に体調を崩してしまう)。我ながら、実に規則正しい生活を続けているのです(笑)。
 
一日の予算は、往復の交通費を併せてちょうど1000円、月3万円。でも、電気代(通常1000円以下、冬は電気ストーブを使うので3000円ぐらいかかる)とか、ごくたまに向かう都心への電車賃とか、月に一度は行く銭湯代(普段は自室で冷水摩擦)とか、パソコン関連のアクシデントに際しての思わぬ費用とか、なんだかんだで、どうしても足が出てしまいます。その場合は、3駅先の病院やスタバには、(2時間近くかけて)歩いて行く。食べるものが無くなれば道端の雑草を食べます(意外に美味しいものが多い)。深夜2時まで起きていることが出来たなら、隣のコンビニで賞味期限弁当などを分けて貰うことも可能です。
 
え~と、長々と書いてきたのは、要するに「生活には特に困ってはいない」ということでして、早い話、衣食住には困っていない。ちなみに「衣」に関しては、(モニカが買ってくれてる衣類は中国に置いたままだけれど)、ヨドバシスタッフのM君や上海中国人芸術家のD氏からセーターやズボン、ギリシャのジョージからサンダル、中国の元婚約者スーリンからジャンパー、あとは自分でTシャツやブリーフを100円ショップで3枚ずつ購入、それを毎日水道で手洗いして一年間着ている。見かけはともかく清潔な身なりは心がけています。あと100円眼鏡と併せて、身に着けている自分で買ったものは、総額(税込み)330円。僕の値打ちは、最低330円はあるということですね(笑)。
 
生活に関しては、それで充分。外野に文句を言われる筋合はありません。まあ、それが良い事なのかどうかはともかく(少なくても日本滞在中は)数10年間そのスタイルで通してきたので(僕の目からは日本人ほぼ全員が余りに贅沢に見えます)。
 
仕事(具体的には、これまでしてきた仕事を残し伝える作業)をしたい。そのための資金がいる。その資金を得るために仕事したい。しかし閉ざされている。
 
そんなわけで、いつ実を結ぶか分からないまま、毎日、実に規則正しい作業を行い続けることを、余儀なくされているわけです。考え方によれば、実にハードな生活です。途中の松屋(たまに餃子の満州)の昼食タイム(食べるのに5分もかからない)を除けば、朝9時から夜11時まで14時間、座りっぱなしで全力でパソコンと格闘しているわけですから、考え方によれば凄いオーバーワークなのかも知れません。
 
毎日、夕方以降は、頭と胸と胃が猛烈に痛く(苦しく)なり、しばしば意識が無くなりかけて倒れそうになります。でも、病院で検査をしても、(上記した血圧と口蓋の奥の破損以外には)どこにも異常が見つからない。医者は「ストレス」だ、というのですが、それは「最強の安易診断」で、とても納得し難いです。
 
仮に「ストレス」を認めるとしても、じゃあどうすりゃいいのか? そりゃ、しょっちゅうお金の工面を考えていたり、 一日中パソコンにへばりついていれば、膨大なストレスを生み出すのかも知れませんが、それが僕にとっては日常なわけですから、どうしようもありません。
 
そこへ行くと、スタバのスタッフなどは羨ましいですね。一生懸命働けば、その報酬としての給料が発生する。僕だって、そこいらのサラリーマン以上の仕事量をこなしているのです(必ずしも好き好んでやってるわけではない)。サラリーマンなら、たぶん同じ内容の作業をすることで給料が貰える。僕の場合は、加えて土日無し毎日6時間の残業込みで、一銭の収入も得ることが出来ない(「収入を得る」という目的で取り組んでいるにも関わらず)。
 
「プレッシャー」があるとすれば、サラリーマンの比ではないのです。むろん彼らの場合は、「企業を通してのダメージを避けるための責任」を背負っているわけですから、そのプレッシャーは「個人」のそれよりも大きいということも出来るでしょうが、たとえ失敗しても、最終的には、(せいぜいクビになるくらいで)直接自分の身に被害が降りかかってくるわけではありません。僕の場合、全ての結果が自分の行く末に直結している。まあ、一言で「プレッシャー」「ストレス」といっても、それぞれ次元が異なるのだと思います。
 
どんどん話が回り道になってしまっていますが、何を言おうとしているのかというと、僕は今年73歳になり、心身ともに、満身創痍の状態にあるということ。
 
一般概念の「リスク管理生活」とは程遠い、滅茶苦茶な生き方です。確かに、僕が体質的に「酒」「たばこ(各種ドラッグも)」「甘いもの」がダメだということが、体調維持にプラスに作用しているとは思われますが、それ以外のことでは、常識的な視点に於いてのリスクは、数限りなく背負っているように思われます。
 
例えば衛生面。東京の僕のアパートの部屋の汚らしさ。別にゴミ屋敷というわけでもないのですけれど(写真や本や資料を詰めた段ボール150箱以外には何もなく、ゴミは週2回ちゃんと出している)。
 
なにしろ、布団もありません。40年ぐらい前に買った夏物のシュラフと、チエちゃんが買ってきた薄っぺらいシート。
同じくチエちゃんが買った電気ストーブ(さすがに冬は肺炎防止のため常時利用している)と、お湯を沸かす、壊れて唯の電熱器化した(湯が沸くまで数10分かかる、たまに冷水ではなくそれで体を洗う)炊飯器。机はもちろん「重ねた本+みかん箱」で代用。上記の衣類少々(常に洗濯している、マスクと靴下も念のため各3枚・3足常備)。モニカからぶんどったカメラ一台。いつも持ち歩いている英語と中国語の辞書。Billboardチャート本数種。中国各地の地図帳、、、。それら(にパソコンとHDD)が、段ボール150箱以外の、全ての「財産」です(泥棒が入っても何を持っていけばいいのか、さぞかし戸惑うことでしょう)。
 
まあ日本の部屋も汚いことは汚い(ゴキブリがうろつきまわっている)のですが、中国の部屋(上述したように先日引き上げた)のどうしようもない汚さに比べれば、可愛いものです。一か月留守にしていると、数ミリの厚さの埃に、部屋中が覆われてしまいます。
 
夏期には、朝購入したパンが夕刻には湿気でぐしゃぐしゃになり、朝入れたお茶は夕方にはカビにまみれてしまいます。桁外れの湿潤と桁外れの乾燥が同居、町中埃だらけで、水道からは茶色い水が出、農薬まみれの野菜と、油にまみれた料理を食べています。
 
公共トイレの壮絶な汚さは周知の通り。のみならず、地下鉄のプラットホーム、高級スーパーのフロア、食堂のごみ箱、、、いたるところで子供が小便・ウンチしています。
 
僕も、(中国滞在中は)そのようなところで日常生活を送っているわけです。
 
むろん、日本でも中国でも、冷房などは一切使いません。熱中症対策などはしたことがない(「マスク」同様に「クーラー」も諸悪の根源と思ってるので)。
 
食生活も、一か月毎食松屋牛丼だったり、相当に出鱈目です。面倒くさいので一度に貯め食いしたり、逆にお金がないときは道端の雑草と水だけで過ごしたりと、滅茶苦茶です。
 
精神面でも、上に何度も記したように、寝る時以外は一日室内でパソコンに向かっているわけで、(経済上の逼迫も加え)たぶん、とんでもないストレスを背負っているのだと思います。
 
と思えば、(少なくとも一昨年頃までは)4~5000m級の山岳地帯を、サンダル履きで一日50㎞歩き通したりしている。客観的に考えれば、老人の行動としては自殺行為のようなものです。
 
たぶん今でも(マクドナルドの深夜清掃のような対外責任を負わねばならぬ作業は出来ないとしても)5000mの山に調査に行くとすれば、行けると思います。たぶん(本番は10年余試していませんが)あっちの方も、若い可愛い娘を用意してくれれば、大丈夫なんではないかと(今でもゴミ捨て指定日にゴミを捨てに行くような感覚で定期的に自分で出していることですし、笑)。
 
いずれにしろ、いわゆる「健康管理」に関しては、滅茶滅茶です。とにかく、健康にプラスになるようなことは、何一つやってません(自慢しているわけではなく、自分なりに反省している)。
 
むろん、今回のコロナへの用心も(少なくとも自分が被るリスク管理に関しては)一切していない。ウイルスには、これまでにもしょっちゅう感染してきたわけですから、かかるときにはかかる。
 
それでも、73歳の老人にしては、何とか持ちこたえているわけです。
 
全てにおいて、健康管理・リスク排除に気を使ってる人たちとは、正反対なわけですが、結果として、我彼のどこが違っているのでしょうか?
 
大金を注いで、常に健康管理・リスク回避を心がけている人たち(お金持ち)が、意外と早く衰えてしまったり(その人たちの中に73歳で5000m級の山々を歩き回れる人はどれくらいいるのでしょうか?)する反面、普段、健康管理・リスク管理を行っていない(行いたくても行えない)「貧乏人」が、案外しぶとく頑張っていたりします。
 
訳注:
 
➀4~5000m山の山々を歩き回る云々について。そのようなところも、原則サンダル履きです。下手に靴を履くと、即体調に悪影響が及ぶのです(ある時期「裸足にサンダル」が正装のミャンマーにいたことも関与)。もちろん雪のあるところや渓流沿いの苔むした岩上を歩くときなどは例外。そのような所に行く時は、磯足袋(以前は地下足袋に草鞋)やマラソンシューズを履きます。
 
②中国奥地での行動は、必然的にヒッチ・ハイクを余儀なくされます。困るのは、乗せてくれた車で、必ずのようにカメラの話題が出ること。「どんなカメラを使っているのか見せてくれ」と。彼らは、完璧なアウトドアスタイルの装備をし、カメラも高級なのを何台も持っています。でも僕のほうといえば、貧しい身なりにボロカメラ一台。みっともないことこの上もないのです。それは中国に限ったことではなく、日本でも同様です。鎌倉(といっても山の中のボロ家)在住時、近くに住んでいた高名な作家の紹介で、「朝日カルチャーセンター」とかの、「鎌倉ネイチャー写真教室」とかの講師を引き受けたことがあります。いざスタートという直前になって、主催者側から依頼取り消しの要請が。僕のカメラが、余りのぼろカメラで、レンズも一本だけ、それでは生徒さんたちの信頼を得られない、ということなのだそうです。「弘法筆を選ばず」といっても、現代の一般社会では通用しないのです。
 
③中国(香港経由)行の航空チケット代は、通常8000円程度(成田までの電車賃が半分ぐらいかかる、笑)。それをも含めて、日本で暮らすより中国で暮らした方が、安上がりで、かつ圧倒的に便利。
 
時間になりました。こんなどうでもいい文章書いてて時間を無駄に使わずに、「中国の野生植物」全100巻の整理に取り組まねばなりません。
 
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最後に纏め。
 
僕にとって、油断大敵な存在は、風邪、すなわち従来からのウイルス全般であって、決して「新型武漢コロナウイルス」ではありません。むろんそれも脅威には違いないですが、脅威は他にも無限にあります。これまでと同様に、「風邪をひかぬよう」留意するだけです。
 
(いわゆる「コロナ」を含めた)ウイルスは、決して「敵」ではありません。「敵」と見做し、「(マスクで)逃げれば済む」「(ワクチンで)やっつければ済む」という問題ではありません。
 
今こそ「俯瞰的」な見方が必要とされている。
 
そのことと、途中から突然付け加えた「明治文学」以下の話題と、どのような関りがあるのか。まるで支離滅裂のように思うのですが、無関係ではないのです。どっかで繋がります。
 
頭の悪い僕には、うまく繋げることが出来なくて、もどかしいのですけれど。